エルのつれづれ日記 No.2
2017-02-26T23:19:30+09:00
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パピオンのエルです。 パパと一緒に写真で日記を綴ります。 No.2です。
Excite Blog
ズーラシアマラソン20km走りました
http://elfin051.exblog.jp/25450625/
2017-02-26T23:05:53+09:00
2017-02-26T23:19:30+09:00
2017-02-26T23:19:30+09:00
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未分類
毎年走っていた東京マラソンの出場権は入手困難になり、今年はズーラシアマラソン20kmにエントリーしました。
家からも近く、孫がよく遊びに来る所なので、今日も応援に来てくれました。
孫が撮った写真です。
規模は小さいのですが、気兼ねなく走れ、2.5kmの周回コースなので、応援もしやすく、飽きずに応援してくれました。
天気もよく楽しい1日を過ごしました。
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孫が描きました
http://elfin051.exblog.jp/25435466/
2017-02-25T09:28:34+09:00
2017-02-25T09:29:49+09:00
2017-02-25T09:29:49+09:00
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未分類
孫が初めて描いた絵らしい絵です。
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観音崎に行きました
http://elfin051.exblog.jp/24355103/
2016-05-05T10:27:15+09:00
2016-05-05T10:28:45+09:00
2016-05-05T10:28:45+09:00
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未分類
天気がいいので孫と観音崎に行きました。
久しぶりの海が青空と迎えてくれました。
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10月17日(木) ロシア 成田空港~サンクトぺテルブルグ
http://elfin051.exblog.jp/23732367/
2015-09-20T16:15:00+09:00
2015-10-02T15:08:05+09:00
2015-10-02T01:34:01+09:00
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201509ロシア
サンクト·ペテルブルクと
モスクワ5日間
出発日2015年9月17日(木)
帰着日2015年9月21日(月)
コースNO:E616SU5·E6165W
·集合日時 2015年9月17日(木曜日) 10:00
·集合場所 成田国際空港第1旅客ターミナル4F
北ウイングGカウンタニ18~20番
阪急交通社受付カウンター
出発便
アエロフロート·ロシア航空0265便
出発時刻:12:00
少し早めに家を出た。
雨が降っていた。
トランクにゴミ袋を被せ、雨水に濡れないようにした。
朝の電車は出勤時間と重なり混んでいた。
横浜から 7:28 成田エキスプレスに乗り換え9:01 に成田に到着した。
成田エキスプレスは空いていた。
スライドショーでご覧ください
集合1時間前なのにもう10人ぐらいが並んでいた。
昨日添乗員から電話が入り、旅行についてアドバイスを受けた。
家内が電話を受けたのだが、とても親切な感じの人だったという。
名前をポポバ(?)と言ったという。
聞きなれない名前だが聞き直せないと思いそのままにした。
私たちの順番が来た。
今回の添乗員はロシア人だった。
とても流暢な日本語で、気を配った話し方は電話だけではロシア人とはわからない。
20代後半か30代前半の女性だった。
とても物静かな感じの人だった。
1組ずつ丁寧に対応してくれた。
私たちは搭乗時の説明を受け挨拶を交わし、荷物を持ってチェックインカウンターに向かう。
チェックインカウンターの女性は感じが悪かった。
無言で仕事をこなし、言葉少なに必要事項のみを説明して搭乗チケットが渡された。
再び添乗員ポポバ(?)さんの所にもどり、搭乗チケットを見せ座席を確認してもらった。
続いて私たちは円をロシア通貨ルーブルに両替した。
家内は20000円私は10000円合計30000円を両替した。
20010円で8700ルーブルだった。
レートキャッシュ1ルーブル2.30円だった。
以前(7月~8月)に比べて安値で推移していた。
不二家で朝食を済ませた。
いつも家の近くの不二家の値段より高い設定の朝食だったが、高いだけあって食材が違っておいしかった。
搭乗時間になりゲートに向かう。
これからモスクワ空港まで約10時間10分のフライトだ。
12:00
私たちはアエロフロート·ロシア航空0265便でロシアに向かった。
座席は比較的ゆったりしていた。
小柄の私たち夫婦にはあまり苦にならない。
前面パネルにはUSBジャックがあり、スマフォが充電できた。
映画はたくさんあったが日本語のものは見当たらなかった。
Ipadに用意した漫画とビデオをひたすら読んだ。
なかなか読む機会がなかったので集中できるこの時間は結構楽しめる。
食事はなかなか出てこなかった。
1時間以上たって飲み物が運ばれたが、ナッツはついてこなかった。
その後しばらくして食事が運ばれた。
2種類あったようだが、選択の余地はなかった。
お水はついてこなかった。
家内がネットで読んで知っていたので、ペットボトルを機内に持ち込んだので助かった。
ドリンクが運ばれたときにオレンジジュースとコカコーラーを注文するとコーラーは栓を開けずにくれるので食事のときに飲めてよかった。
漫画を読んで、ビデオを見て、何回か昼寝をして、何回かトイレにたちストレッチをして飛行機はモスクワに到着した。
モスクワ空港でツアーの参加者が集合した。
総勢34人のツアーだった。
20代から70代ぐらいの年齢層だった。
1人参加の人も数人居た。
私たちはモスクワからトランスファー(国内線に乗り換)してサンクトペテルブルグに向ので入国手続きをするため入国カードを発券してもらう。
トランスファーのモスクワ空港では時間があった。
長い飛行だったので、体を伸ばしたりして休んだ。
18:20 アエロフロート·ロシア航空0026便でサンクトペテルブルグに飛んだ。
機内ではサンドイッチと飲み物が出された。
19:40 サンクトペテルブルグ到着。
ターンテーブルで荷物を受け取る。
反対側で待っていた私たちの荷物がなかなか出てこないと思っていたら添乗員ポポバ(?)さんがtrapicsのタグの付いたトランクをピックアップしていた。
全員のトランクが出てきて、点呼を取ると2名足らなかった。
トイレか?迷子か?添乗員ポポバ(?)さんは探したが居なかった。
「荷物を受け取って出てしまったんでは?」と考えて一同出口に向かった。
現地ガイド イリナさんが迎えてくれた。
先に出ていたツアーの仲間も一緒に待っていた。
みんなそろってロシアの土地を踏むことができた。
バスで約8kmで ホテル ヴェデンスキーに到着した。
バスの中でパスポートを集められた。
ロシアでは滞在中ホテルにパスポートを預けることになっているらしい。
鍵を渡されトランクを引きずって部屋に入る。
21:45 添乗員ポポバ(?)の提案でコンビにに行くことになった。
アルコールは10:00までしか購入できない。
3分前に到着した。
とりあえずビールだけ買った。
その後スナックを少し買った。
部屋に帰りベットにつく。
長い1日だった。
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10月18日(金) ロシア サンクトペテルブルグ散策
http://elfin051.exblog.jp/23732339/
2015-09-20T16:01:00+09:00
2015-10-02T15:07:07+09:00
2015-10-02T01:14:18+09:00
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201509ロシア
06:30起床。
07:00朝食。
昨晩は寝ても寝ても朝が来なかった。
飛行機の中で寝ていたことと、時差で十分睡眠時間は取れた。
朝食会場は1階ロビーの正面にあった。
ビュッフェタイプの朝食だった。
後方にまだテーブルは空いていた。
空いているところから朝食を採る。
品数は余りない。
卵料理とパンとチーズとハムとコーンフレーク。
サラダになる野菜は少なかった。
それにスープだった。
日本人ツアーは私たちだけだったが、中国人ツアーと一緒だった。
空席が見る見る無くなった。
と同時に食材に群がる人が増えた。
彼らはマナーが悪く、大声で電話するし、並ばずに横入りは当然。
トングを元に戻さず、持ち歩き自分専用にする。
いささか閉口した。
最近は公の場所ではだいぶ落ち着いてきたと思っていたが、一部の旅行者はまだ国際マナーができてないようだ。
かつて日本人もそうであったので余り強く言えないが、食事中は不快である。
08:30バスでホテル出発。
【世界遺産】《サンクトペテルブルク市内終日観光》く約6時間〉
耳太郎のガイドホーンの説明があり、用意した。
ネヴァ川河口域デカブリスト広場
ネヴァ川は、ロシア北西部のラドガ湖からカレリア地峡を経てサンクトペテルブルク市内を流れ、フィンランド湾に注ぐ全長約74kmの川である。
横断歩道を渡りデカブリスト広場に到着。
ここには青銅の騎士が建てられている。
この都市を創建したピョートル大帝の偉業を称えたプーシキン作の叙事詩『青銅の騎士』が有名になったため、この名で呼ばれるようになった。
(by Wikipedia)
公園を歩いて抜け、バスで聖イサク寺院に向かう。
次の目的地はすぐに到着した。
聖イサアク大聖堂は、ロシア、サンクトペテルブルク中心にあるロシア正教会の大聖堂である。
ドームの高さは101.5メートル。
聖イサーク大聖堂、聖イサーク寺院とも表記される。
聖イサアク大聖堂の名称は、ピョートル大帝の守護聖人、ダルマチアの聖イサアク(聖イサク・ダルマツキー)に由来する。
ロシア正教会は、正教会に属するキリスト教の教会であり、数多くある独立正教会の一つである。
(by Wikipedia)
ピョートル大帝の銅像
聖イサク寺院の前の広場に建つ銅像、大帝は聖イサク寺院の方向を見ている。
ロシアは地震が無い為、馬の銅像は後ろ足2本だけで大きな銅像を支えている
続いてバスに乗り、お土産屋に向かった。
たくさんのマトリョーシカ人形が飾られていた。
家内もお土産に数点購入した。
マトリョーシカ
胴体の部分で上下に分割でき、中には少し小さい人形が入っている。
これが何回か繰り返され、人形の中からまた人形が出てくる入れ子構造になっている。
1900年のパリ万国博覧会で銅メダルを受賞したのを機会に、ロシア帝国各地でいろいろなマトリョーシカ人形が作られるようになり、ロシアの民芸品、みやげ物として知られるようになった。(by Wikipedia)
次に私たちは血の上の教会に行った。
公式名は、ハリストス復活大聖堂。
このほか、血の上の教会の名称でも知られる。
この名称は、1881年3月13日(ユリウス暦3月1日)のロシア皇帝アレクサンドル2世暗殺によるもので、教会が建つ場所は、皇帝遭難の地である。
ロシア皇帝アレクサンドル2世は、「解放皇帝」と呼ばれ、農奴解放を初めとする「大改革」を行ったが、次第に反動化していった。同時にナロードニキ運動の急進化に伴い、ナロードニキの一部はニヒリズム、テロリズムに走り、1881年3月1日ついに皇帝もテロの標的となって斃れた。行幸先から帰る皇帝の乗った御料車が運河に沿って通る中、女性革命家ソフィア・ペロフスカヤによって指揮された「人民の意志」のテロリストは皇帝を狙って手榴弾を投げた。手榴弾は2人のコサック衛兵を負傷させたが、皇帝は無事であった。しかし現場を見るために御料車を降りた皇帝の足下に別のテロリストが爆弾を転がして爆発させ、瀕死の重傷を負った皇帝は担ぎ込まれた冬宮で一時間後に崩御した。
教会の建立は、アレクサンドル2世の跡を継いだアレクサンドル3世によって先帝を弔うために行われた。(by Wikipedia)
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10月18日(金) ロシア 宮殿広場・エルミタージュ美術館(別館)見学
http://elfin051.exblog.jp/23732310/
2015-09-20T15:59:00+09:00
2015-10-02T15:06:23+09:00
2015-10-02T00:56:59+09:00
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201509ロシア
10:30
デカブリスト広場から道路一本を挟んで、すぐ東側にある宮殿広場に来た。
宮殿広場 (きゅうでんひろば)はロシア・サンクトペテルブルクの冬宮殿(エルミタージュ博物館)の前にある広場で、この都市の中央広場であると同時に血の日曜日事件(1905年)、十月革命(1917年)、スターリン哀悼大集会(1953年)などの歴史的事件がここで起こっている。
広場の北西側に冬宮殿が1762年に完成して、反対側の南東側にはロシア帝国軍参謀本部ビルが1827年にでき、広場の中心にナポレオン戦争の勝利を記念したアレクサンドルの円柱(アレクサンドル1世を記念)が1834年に完成して、帝政ロシアを代表する広場になり、モスクワの赤の広場と並び称される。(by Wikipedia)
続いてエルミタージュ博物館見学
エルミタージュ博物館
1764年にエカチェリーナ2世がドイツから美術品を買い取ったのが、エルミタージュ・コレクションのはじまりである。
エルミタージュ美術館の起源はエカチェリーナ2世が1775年に建てた自身専用の美術品展示室であり、一般公開はされていなかったが、1863年に初代館長となったゲデオーノフによって市民も観覧が可能となった。
1917年のロシア革命後は貴族から没収されたコレクションの集積所となった。1918年には冬宮に存在した全ての研究、管理組織を建物共々、エルミタージュ美術館として統合することが決定された。この統合作業は第二次世界大戦後に完了した。
(by Wikipedia)
エルミタージュ博物館(別館)印象派以降の作品が展示されている。
ルノワール 『ジャンヌ・サマリーの肖像』『扇子を持つ女』『小さな鞭を持った少年』
セザンヌ 『ピアノを弾く少女』『煙草を吸う男』『カーテンのある静物』
モネ 『庭の女』『ジヴェルニーの干草』『ウォータールー橋』
ゴッホ 『アルルの女たち』『ライラックの木』『夜の白い家』
ゴーギャン 『果実を持つ女』
ルソー 『虎のいる熱帯の嵐』
アンリ・マティス『赤い部屋』『会話』『ダンス』
等が展示されている。(by Wikipedia)
フラッシュをつけなければ写真撮影は自由にできる。
こんなにすごい絵画が身近で大量に見学できると「これ本物?」って感覚が沸くのは素直でない証拠?
一つ一つ観賞する時間は無かったが、混雑は無く、すごい絵画に囲まれた空間を独り占めできる贅沢な時間を過ごした感じがした。
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10月18日(金) ロシア 昼食
http://elfin051.exblog.jp/23732291/
2015-09-20T15:58:00+09:00
2015-10-02T15:05:29+09:00
2015-10-02T00:45:56+09:00
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201509ロシア
12:30 昼食の時間になった。
バスで移動。
今日の昼食はペリメニ。
ペリメニとは、小麦粉と卵をぬるま湯(または牛乳)で練って作った薄い生地に、細かくひいた肉や野菜を包み茹でて食すロシア料理。
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10月18日(金) ロシア エルミタージュ美術館 Ⅰ
http://elfin051.exblog.jp/23732285/
2015-09-20T15:56:00+09:00
2015-10-02T15:04:33+09:00
2015-10-02T00:42:51+09:00
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201509ロシア
13:45 昼食が終わり、再び宮殿広場に戻ってきた。
宮殿の北側はネヴァ川に面し、南側には宮殿広場が広がる。
帝政時代は王宮として機能し、最初に使用したのはエカテリーナ大帝(在位:1762年 - 1796年)。 レフ・トルストイによる小説『戦争と平和』に描かれる1812年ロシア戦役前後のロシア宮廷の舞台の一つである。
ここは極めて政治的な場所でもある。1905年1月の冬宮前広場での「血の日曜日事件」、1917年の2月革命後のケレンスキー政府の拠点、1917年10月革命ではボリシェビキ革命軍が突入し、臨時政府の閣僚を逮捕した場所でもある。
そして、レーニン率いる革命軍も一時ここを占拠した。
また、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツによる900日の包囲も経験した。
エルミタージュも当然ドイツ軍の攻撃対象となった。
さらに、戦後のスターリンによる博物館職員の大量粛正もロシア独自の残酷な運命だった。
このように、エルミタージュは他の博物館とは違って、政治という血生臭い波乱の中で過ごしてきた。
エルミタージュは歴代皇帝が建設したり収集した産物だが、それだけにとどまらず、ロシアの歴史そのものなのだ。
エルミタージュはもともとフランス語で「隠者の庵」、「隠れの間」を意味する。
こういった意味でのエルミタージュは、ヨーロッパ各国の皇帝や国王が私的に構えた「離宮」として、17世紀には登場していた。
そもそもの始まりは、ルネサンス期のイタリアに起源があるとされる。
静かな場所で祈り、また休息の場所でもあったのだ。
この伝統はスペインやフランスに伝播した。
ピョートル大帝も1717年にヴェルサイユと離宮を訪れている。
こんな背景のもとで、ロシアでも今日のエルミタージュ美術館がおよそ100年をかけて完成した。
そして、現在ここには約300万点もの美術作品が保管されている。
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10月18日(金) ロシア エルミタージュ美術館 Ⅱ
http://elfin051.exblog.jp/23732246/
2015-09-20T15:55:00+09:00
2015-10-02T15:03:58+09:00
2015-10-02T00:24:35+09:00
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201509ロシア
イタリア・ルネサンス
レオナルド・ダ・ヴィンチ 『聖母ブノワ』『リッタの聖母』
ラファエロ 『コネスタビレの聖母』『聖家族』
ジョルジョーネ 『ユディト』
ティツィアーノ 『ダナエ』『懺悔するマグダラのマリア』
カラヴァッジオ『リュートを弾く若者』
スペイン
エル・グレコ 『使徒ペトロとパウロ』
ベラスケス 『昼食』
ゴヤ『アントニア・サラテの肖像』
フランドル・オランダ
ルーベンス 『大地と水の結合』『ペルセウスとアンドロメダ』
ヴァン・ダイク 『自画像』
レンブラント 『フローラに扮したサスキア』『ダナエ』『放蕩息子の帰還』
などが展示されている。
またエジプト展も併設されていて、本物のミイラや棺が見られた。
見学が終わり外に出ると広場は雨が降った後だった。
空が大きく変化していくのがわかる。
海に近い大地の空はよく変わるらしい。
約2時間の間に結構な雨が降ったようだった。
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10月18日(金) ロシア 夕食・買い物
http://elfin051.exblog.jp/23732222/
2015-09-20T15:53:00+09:00
2015-10-02T15:03:35+09:00
2015-10-02T00:15:16+09:00
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201509ロシア
今日の見学は終了した。
これから夕食に向かう。
空の変化を感じながら食堂に到着。
夕食は、ビーフストロガノフ
年老いたアレクサンドル・セルゲーエヴィチは歯の多くが抜け落ち、好物のビーフステーキが食べられなくなってしまった。
彼のために食べやすい大きさに切った牛肉を柔らかく煮込み、かつ牛肉の風味を生かした料理が考案されたという。
食事が終わり、外に出ても空は明るかった。
19時にオプションの「スペードの女王」のオペラ観賞があるので、その人たちを劇場に送り、私たちはホテルに戻った。
添乗員のポポバ(?)さんはアンナと言う名前だった。
彼女の提案で近所のスーパーに買い物に行くことにした。
ビールと、お土産のチョコレートとスナックを少し買った。
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10月19日(土) ロシア 朝食~プーシキンヘ
http://elfin051.exblog.jp/23732193/
2015-09-20T15:50:00+09:00
2015-10-02T15:02:41+09:00
2015-10-02T00:06:35+09:00
elfin05-2
201509ロシア
昨晩は疲れていたせいか、夜9時には就寝していた。
またも寝ても寝てもなかなか朝は来なかった。
6時30分起床。
7時朝食。
今日は4階にあるレストランでの朝食だ。
昨日より狭かった。
大きなテーブルは8ヶ所に設けてあったが、食材がおいてあるところは狭かった。
私たちは日本人旅行者で席を固めた。34人だったので3テーブルを占めた。
そこにまた中国人旅行者と一緒になった。
彼らは実に自己中心的である。
彼らもまたテーブルを占拠しているにもかかわらず、ティースプーンをとりに席を立つと食べ終えていないにもかかわらずそこに座ろうとする。
またナイフ、ホークが置いていないところでは他人のナイフ、ホークを使ってでも食事を取ろうとする。
またしてもいささか閉口した。
09:00バスホテル出発。《プーシキンヘ》(約27km)
ロシアの交通事情は読めないようだ。
かなり余裕をもって設定されている。
すこし早く到着したので。
お土産やさんにトイレ休憩をかねて立ち寄った。
何も買うものは無かったが、マトリョーシカが安かったので1つ買った。
ツァールスコエ・セローは、サンクトペテルブルク中心区の南方24kmほどの位置にあるロシア皇帝の離宮、エカテリーナ宮殿などが集まる避暑地。
かつてはプーシキン市だったが、現在はサンクトペテルブルク市プーシキン区となっている。
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10月19日(土) ロシア エカテリーナ宮殿観光
http://elfin051.exblog.jp/23732130/
2015-09-20T15:48:00+09:00
2015-10-02T15:02:01+09:00
2015-10-01T23:54:50+09:00
elfin05-2
201509ロシア
プーシキン10:45着《エカテリーナ宮殿観光》く約2時間〉
エカテリーナ宮殿とは、サンクトペテルブルク中心部から南東25kmの郊外の避暑地ツァールスコエ・セローに存在するロシア帝国時代のロココ建築の宮殿。
私たちが通過すると日本国歌を吹奏した。
中国人観光客が通過すると中国国歌を吹奏してチップを求めた。
宮殿の名前は、ピョートル大帝の后でもあった、第2代ロシア皇帝エカテリーナ1世(在位:1725年 - 1727年)に由来する。
エカテリーナがドイツの建築家Johann-Friedrich Braunsteinを雇って夏の避暑用の離宮として1717年に作らせたのが最初のもので、その後、第4代ロシア皇帝アンナ(在位:1730年 - 1740年)がロシア人建築家に命じ増築させた。
第6代ロシア皇帝となったエリザヴェータ(在位:1741年 - 1762年)は母のエカテリーナが建築させたものが時代遅れで不便であるとして抜本的に作り直すことを決定、壮麗・壮大なロココ調建築に入れ替えるよう、既に冬宮殿建設に関わっていた宮廷付き建築家バルトロメオ・ラストレッリに命じた。
建設は1752年5月から4年の歳月をついやし、1756年7月30日に全長325メートルの現行規模の宮殿が完成した。
とりわけ「琥珀の間」が有名である。
琥珀は、第二次世界大戦のレニングラード包囲戦中にドイツ軍に持ち去られたが、1979年から始まった復元作業により、2003年に完全に復元された。
1791年、日本人の漂流民大黒屋光太夫が帰国を願うため、エカテリーナ2世(在位:1762年 - 1796年)に謁見した場所としても知られる。
一般に夏の間過ごしたことから「夏の宮殿」とも呼ばれる。
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10月19日(土) ロシア エカテリーナ庭園
http://elfin051.exblog.jp/23732006/
2015-09-20T15:45:00+09:00
2015-10-02T15:01:05+09:00
2015-10-01T23:10:11+09:00
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201509ロシア
金ぴかの宮殿を見学した後、私たちは庭園を散策した。
皇帝のバスルーム、キャメロン・ギャラリー、大池。
グロットでロシア民謡を謡っていた。
庭園を馬車で回るコースもある。
ウエディングドレスを着た新郎新婦。
13:00
昼食の時間になりました。
昼食はボルシチです。
ボルシチは、テーブルビートとタマネギ、ニンジン、キャベツ、牛肉などの材料を炒めてから、スープでじっくり煮込んで作る。
但し、スープの中身は決まっているわけではない。
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10月19日(土) ロシア ピヨートル大帝夏の宮殿の庭園観光
http://elfin051.exblog.jp/23731986/
2015-09-20T15:40:00+09:00
2015-10-02T15:00:24+09:00
2015-10-01T23:02:19+09:00
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201509ロシア
13:45昼食後、《ペテルゴフー》(約35km)
14:15
ペテルゴフ着
《©ピヨートル大帝夏の宮殿の庭園観光》〈約1時間30分〉
ペテルゴフ宮殿(露)(ピョートル大帝の夏の宮殿)とその噴水庭園はロシアを代表する観光地のひとつである。
ピョートル1世の命により当時の先端技術を投入されて建設されたもので、ベルサイユ宮殿の影響が見られる。
ペテルゴフの「夏の宮殿」は、ロシア・サンクトペテルブルクから西に約30km離れたフィンランド湾南岸に位置する宮殿と庭園である。中心の大宮殿を境にして「上の庭園」と「下の公園」に配置された、全体で20の宮殿と7つの公園から構成されている。庭園を進むと趣向を凝らした噴水に次々と出会う。庭園内の噴水の数は150を超える。
ペテルゴフの建設は1714年、ロマノフ王朝第4代、ピョートル大帝から始まり、1723年に完成式典が行われた。建設地はそれまで小さな港以外に何もない場所だった。
ペテルゴフの噴水は15mほど高い宮殿の南側から、北の海側の低い庭園に下る水位差を利用している。噴水には大量の水が必要であることから、1920~21年、ペテルゴフ南方22kmにあるロプシャから水路や貯水池を経由して水を供給するシステムを造り上げた。
その水源は地下湖であるという。最終的に、19世紀半ばまでに水路は総延長56kmに及んだ。そのうち21kmはカナールで、貯水池の総面積は21ha、貯水量は13万m3、パイプの総延長は30km、水門は26箇所設けられている。24時間噴水を出し続けることも可能である。
歴代ロシア皇室により拡大・装飾され離宮として利用されていたペテルゴフだが、1917年のロシア革命の後は博物館群として公開されている。
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10月19日(土) ロシア サンクトベルグ空港~モスクワ空港
http://elfin051.exblog.jp/23731897/
2015-09-20T15:37:00+09:00
2015-10-02T14:58:42+09:00
2015-10-01T22:45:50+09:00
elfin05-2
201509ロシア
16:55
空港に向けて出発。(約29km)
大地と空のキャンパスを描く雲。
近代的なマンションが建設中。
空港近くのレストランで夕食。
空港に到着。
現地ガイドイリナとお別れだ。
やさしい物言いの穏やかな好感の持てるガイドさんだった。
《空路、モスクワヘ》
サンクトペテルブルグ発20:35 SU-0027
アエロフロート・ロシア航空
(所要時間約1時間15分)
モスクワ着21:50着
バスにてホテルヘ。
10:45ホテル着。
都会風の落ち着いたホテルだった。
宿泊ホテルイリスコングレス。
〈モスクワ泊〉]]>
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